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JAいわて花巻管内の輝く児童・生徒たち!!

2021年3月4日

 JAいわてグループが令和2年度に開いた「第45回『ごはん・お米とわたし』作文・図画岩手県コンクール」で、JAいわて花巻管内の児童・生徒たちが素晴らしい成績を収めました。

 その作品を紹介します。

 

第45回「ごはん・お米とわたし」

作文・図画岩手県コンクール

 

 児童・生徒たちに日本の食卓と国土を豊かに作り上げてきた農業についての学びを深めてもらうことなどを目的に毎年開催しています。今年度は、県内の小中学校45校から作文71点、図画166点の応募がありました。

 

JAいわて花巻管内の入賞者

 

《北上市立江釣子中学校 3年 藤田 若葉さん》

■■図画部門■■

岩手県知事賞

 

「おにぎりの思い出」 

 

■■作文部門■■

(一社)家の光協会北海道東北普及文化局長賞

 

「お米が教えてくれた平和」

 私の祖母は八十八歳だ。病気をして体が弱くなってしまって外に出たがらなくなった。けれども、体調が良い時をみて、ドライブに誘うと喜んで一緒に出かけてくれる。ドライブといっても近所の風景を見て回るだけだが祖母は季節の何気ない変化も楽しそうにしている。特に田んぼの様子を見るのが好きで、

「もう代かきしてるのか!早いなあ。」

「苗がおがってきれいだなあ。」

と、田んぼの風景の移り変わりをうれしそうに眺めている。そんな祖母が、今年は七月の長雨の影響で米の作柄が良くないかもしれないというニュースを見て、

「困ったなあ。米がとれなかったら、大変だあ。」

と、まるで自分の田んぼのように心配していて、私は祖母がどうしてそこまで田んぼのことが気になるのだろうと少し不思議に感じていた。そして、祖母から戦争の頃の話を聞いて、気持ちがなんとなく分かった気がした。

「ばあちゃんが小学生の頃、日本は戦争中で生活がとても大変だったんだよ。日常の生活の品物もなくて困ったけど何より食べるものがなくて本当につらかった。」

「浜で作った塩を持って遠く買い出しに行ったもんだ。その塩とお米を交換してもらったりしたけれど、周りにはせっかく手に入れた食べ物を駅で憲兵さんに没収されて泣いている人もいたんだよ。」

 祖母は県北の久慈市の出身だが、遠く秋田県の横手まで祖母のおじいちゃんと汽車を乗り継いで買い出しに行ったそうだ。大人が一緒とはいえ、小学生の子どもがそんな遠くまで食べ物の買い出しの手伝いをしていたなんて私は胸が痛くなった。お米を手に入れるのはとても難しく、大晦日など限られた時しか家族で白いご飯を食べることは無かったそうだ。祖母は食べ物に困った頃の事が心のどこかに今でも残っているから田んぼの実りがとても気になるのだろう。

 私は今、白いご飯を当たり前のように食べている。品種改良されたとてもおいしいお米が普通に手に入る時代に生きている。戦争で食料不足だった時代から、今のような食べ物に困らない時代になれたのは、戦争を乗り越えて農地を耕し、災害にみまわれながらも努力と知恵で一生懸命に戦後の農業を支えてくれた先人たちがいたおかげだと思う。こうした中、日本から世界に目を向けてみると、今も戦争や紛争、飢きんなどで食べ物に困り、苦しんでいる人たちはまだまだ沢山いる。私たちの今の生活が当たり前ではない、ということを皆が知っておかなければならないと思う。

 昨年十二月、パキスタンとアフガニスタンで医療、水源の確保、農業支援の活動に尽力されてきた医師の中村哲さんが銃撃を受けて亡くなられた。中村さんはアフガニスタンの現状を見て「人々が三度の食事をとれて、家族と共に生活できるようにしたい。そのためには百の診療所より一本の用水路が必要だ。」といい、重機を操り、用水路を作りつづけた。私は中村さんのことを知り、食べることを安定することで平和を生み、平和が食べることを安定させているのだと思った。食料自給率の低い日本において、お米は数少ない自給自足できている大切な食べ物だ。戦後の農業を支えて、そして平和を守り続けてきてくれた沢山の人たちの努力に私は改めて感謝をしたい。

 八月になって晴れの日が続いたおかげで、私の住む地区の田んぼでは今、風にゆれて気持ち良さそうに稲の花が咲いている。これからも、この田んぼの風景が続いてくれる事を強く願う。なぜなら、この田んぼの風景こそが日本の平和の象徴だと思うからだ。

 

 おじいちゃんとおばあちゃんの笑顔が大好きで、図画はおばあちゃんが孫に家庭料理を教えている場面を描きました。一生懸命書いた作文と図画が入賞し、うれしいしやりがいを感じました。

 絵を描くのが好きなので、これからも描き続けたいです。

 

《北上市立南小学校 4年 髙橋 一花さん》

■■図画部門■■

岩手県教育長賞

 

 「おいしいお米で手まきずしパーティー」

 

 家族で手巻き寿司を作っているところを描きました。米粒の書き方を工夫しました。

 お母さんが作る塩むすびが一番好きです。

 

《北上市立黒沢尻西小学校 5年 新田 眞丸さん》

 ■■作文部門■■

(株)日本農業新聞東北支所長賞

 

「バトン」

 五年生になった春、今まで考えてもみなかったことを考えることになった。

 田植えの始まる頃、祖父の運転で田んぼまで車を走らせた。その途中に、ぼくの大好きな長い一本道がある。なぜかというと、田植えの季節になると、風景がまるで一枚の絵のように美しく変身するからだ。

 長い道路の両側には、ナナカマドの街路樹。その街路樹に沿って、何枚もの大きな田んぼがずらっと続く。

 西の山にはまだ残雪があり、水を張った田んぼの水面には、空の青さや周りの景色が映し出され、そうかいな気分になる。

 だが、久しぶりに通ったその道の風景は一変していた。そこには、黒い大きな倉庫と事務所らしき建物が建っていた。ちょっぴり都会の国道でも走っているかのようで、辺りの風景とは似合っていないように感じた。

 その時祖父が、

「このへん一帯は、苗作りからやって比較的大きな農家が多く、農地もそっちこっちに持っている人たちなんだが、それでも農地を手放す人が、年々増えてきているようなんだ。」

と、ぼそっと言った。

 そういえば、去年の暮れ、市役所から送られてきたアンケートの質問用紙に目を通していた祖父が、

「こんなアンケート、今まで来たことないな。」

と、言いながら回答していたのを思い出した。その質問の中には、「農業を継続する」「委たくする」など、いろいろな項目があったと思う。その時は、祖父が田んぼを続けて当然と思っていたので、祖父の言葉を気にもしなかったが、ふと何て回答したのか気になり聞いてみた。

「おじいちゃんさ、去年市役所から届いたアンケートに、農業を続けるかどうかっていう質問があったでしょ。あれ、何て答えたの?」

そう聞くと、少しの間をおいて祖父は、

「ん?まあやれるところまでやって、あと五、六年は大丈夫だと思うから、『継続』にしておいた。」

と言って、笑った。

あと五、六年。五、六年といったら、祖父は七十五歳で、ぼくは高校生か。

 その時、わが家の田んぼはどうなっているのだろうか。今のままだとわが家の田んぼも雑草だらけになるか、手放すしかなくなるんだろうか。急に心配になった。でも、そういうことなんだ。引き継ぎがうまくいかないとバトンがつながらない。と、その時は真剣に考えたが、その後はわすれたしまっていた。

 五月四日の朝、父が何を思ったのか、

「今日は、田植えの手伝いにいくぞ。」

と、急に言い出した。ぼくは、身を乗り出して出かける準備を始めた。

 

 将来、日本のお米がなくなる日がくるかもしれないと不安に思い、作文にしました。

 お米は、作った人たちのことを考えると心が温まっておいしく食べられます。家族には農業を引き継いでもらい、お米の味わいを残してほしいです。

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